「映画館へ行こう!」〜映像の向こうに〜(2001/05/03) - ひとり言


「最近、映画見た?」と友達に聞くと「すぐにテレビでやるからお金出してわざわざ行かなくても・・・」とよく言われてしまう。つくづく彼に言いたい。映画はテレビと違うのだ。自分が見ている世の中がフルサイズならばテレビはミニチュアだろうし、映画はこの現実に近い。主人公の顔などはスクリーンいっぱいに映し出され、それは現実の人間の顔の何百倍もあり、その頬から流れる涙がバケツ一杯ぐらいあるのだ。映画はあの大きなスクリーンが重要なのだ。逆に画面がマッチ箱程度の大きさの液晶テレビで「風と共に去りぬ」を見ている自分を想像すればわかってもらえるだろうか。
私が映画館で映画を見るようになったのは二十才を過ぎてからだ。それまでは各民放テレビ局の夜九時からの映画を見ていた程度だった。毎年、何本かずつ見ていた。ある年の冬、毎週のように映画館に足を運べたときがあった。一日に四、五本、映画をはしごするのだ。帰り道にその日見た映画を思い出すと、はじめの映画の主人公が三本目の映画で大暴れしているようなことも、その日見た映画の題名すら思い出せないこともよくあった。もちろんその年に見た映画が何だったのか何十年もたった今、覚えているはずがない。ところがそれ以前、年に数本しか見ていない年の映画は良く覚えていて、その時の感動も鮮明に思い出せるのだ。それは次に見る映画までの時間があったこと、誰かに話したりすることで、その感動を持続し、あるいは自分の中で感動を育てる時間があったからだと思う。私が小さい頃、みかんの缶詰が貴重で、年に一、二度しか食べられなかった時代、風邪でもひいて学校を休んだ時など風邪薬より、みかんの缶詰のほうがが良く効いたのと同じように、たった一本の映画だったから効き目があったのだ。「効き目」と書いたが、映画の効き目はいったいなんだろうか。映画はもちろんみかんと違って甘くて美味しいだけじゃない。四角のスクリーンに映し出される風景、風になびく金色の麦の穂が地平線の向こうまで続く・・・人間の愛、憎しみ、笑い、悲しみ、喜び、勇気、希望、優しさ・・・沢山の心や色々な人生が描き出される。過去、現在、未来、時を越えて、まだ行ったことのない国、まだ見ぬ宇宙の果てまでも映し出してくれる。カッコイイ主人公が自分に変わって悪い奴らをやっつける。もちろん超美人とのラブシーンだってある。見ているうちにいつの間にかスクリーンの中に引き込まれ映画と同化していく。そして心をゆさぶるほどの感動が体中一杯になる。現実の人生は一つだけれど映画はそんな自分にいくつもの夢、いくつもの人生を体験させてくれるのだ。人の心は現実の自分自身の体験によって生まれ育つように、映画はその「体験」の一つとして心の栄養、スパイス、調味料になるのだ。さあ映画館へ行こう! 
ところでそれと同じ映像のテレビはどうだろうか、テレビは、スイッチを切らない限り、一日にいくつものドラマやアニメ、時には暗いニュースが切れ目なく流れ出してくる。心のほとんどは自分の現実の体験から作られ、映像は補助的な栄養のはずなのに、テレビのその映像体験が現実を追い越していく。現実の目の前の出来事が映像なのか現実なのか、区別がつかなくなっていく。昨日の涙も今日の涙もただの水に変わり心が麻痺していく。あの風邪を治したみかんも食べ過ぎれば消化不良をおこすように・・あの一個のみかんのようないい映画、いいテレビを探して、選んで見ましょう。

1998.5.1