「2000年を前に」〜コンピューターと私〜(2001/05/04) - ひとり言


私はコンピューターをこよなく愛し、それに助けられて生きています。コンピューターを「友」としてつき合っています。(もちろん人間の友達もいますので誤解のないように)何もそれがないと生きていけない訳でもないが、今では私の生活の中に溶け込み、空気のような存在になりつつある。一九八〇年、初めて自分のコンピューターを手にし、年々進歩するコンピューターと共に生きてきた。一八年間もそれとつき合っていれば、今頃プログラマーくらいになっていてもいいはずだが、中身や仕組みを知らなくても自動車を運転したり、テレビが見られるように、一緒にいた時間が長い分、その性格や特徴を知っているだけなのだ。次々と新しく発売されるコンピューターを追いかけてきた。ところが二十一世紀を前に何かコンピューターの性能が成熟期に入ったような気がするのだ。ワープロ機能、計算、データベース、画像処理、通信など初期のコンピューターでもすでにやっていた事だが、処理速度やメモリーのめざましい進歩により性能が一〇〇倍以上も上がっているのだ。インターネットによって、自分のコンピューターが世界中のコンピューターとつながりあらゆる情報を自由に取り出すことも、自分から世界に向けて情報を発信する事もできるのだ。まさにコンピューターは情報を収穫し、自分風に加工して発信する道具だ。ほとんどの仕事はこなしてしまう。まさかトラクターのように畑を耕すことはできないが、他の機械もそうであるように人間に変わってその仕事を高速で処理し、人間に自由な時間を提供してくれる。私がコンピューターをやっている理由はここである。
そしてもう一つの理由は、人は誰でも一つや二つコンプレックスを持っていて、それを少しでも無くしたいという願望があるものだ。シャランQの「あいつみたいな顔に生まれりゃ・・」という願いをコンピューターがかなえてくれるはずはない。しかし私自身、恥をさらすようだが、社会人になってから、もう少し字が上手に書きたいとか、ある程度の記憶力が欲しいとか、そういうコンプレックスを無くしたいという願望は持っていた。もちろんまじめにペン習字や勉強でもすればそれらは消えるはずのコンプレックスなのだとは思うが、実際そう簡単にできるものではない。ところがそのコンピューターの進歩のおかげで、今の私の手紙は活字に変わった。電子の海(インターネット上)で出会った岡山の友達に一瞬にして私の電子メールが送られ、そしてすぐに返事が届く。本来、私の脳に刻まれるはずの私が欲して求めた知識や記憶はコンピューターを通して一枚の光ディスクに焼き込まれ必要なときいつでも取り出せる。こうして私の記憶力を助け、筆無精の私を変えてくれたのがこのコンピューターなのだ。少し進歩した自分がそこにはいる。
現在の社会のシステム全てがコンピューター無しでは考えられない時代でもあるが、個人の生活の中ではまだまだコンピューターなど無くても生きていけるのも事実だ。「コンピューター、そんなもんいらない。電気など無くても動くこの自分の素敵な脳があるではないか・・」それで良いのだと思う。ただもし私のように文字や記憶力にコンプレックスを持っていてそれを何とかしたいと思っている人がいるのなら、あるいはそのコンピューターで自分の欲するものを、手にすることができるような予感がするのなら・・
 さあコンピューターを始めましょう。

1998.4.10