ひとり言(2001/05)
2001/05/09:「宇宙への想い」(一日分)
私が初めて宇宙を意識したのはいつ頃だろう。宇宙を見たいという価値観はいつ頃のことだろう。私が小さかった頃にも星は輝いていたはずなのに、私はテレビに夢中で星どころではなかった。 小学校に天体望遠鏡が届いた日の事をよく覚えている。今はないが木造校舎の東側の理科室の前で細長い木箱にいかめしく納まった白い筒や木製の三脚を覚えている。放課後みんなで組み立てその日の夕方に東から昇る月を見た。まるで白く輝くビー玉のようだった。中学生になりプラスチック製の簡単な天体望遠鏡を買ってもらった。土星の輪をこの時初めて見た。一九七〇年四月、まだ寒い朝にその望遠鏡でベネット彗星を見た。(天体や彗星の本には必ず載っている有名な彗星)いつもなら朝寝坊の私が四時ごろ起きて見たのだ。鉛筆でノートにスケッチした。ちょうど母が起きてきたので一緒に見たのを覚えている。「なんだおらいの息子は・・」とあきれていたかもしれない。一九七六年、十九才の春にはウエスト彗星が来ていた。一眼レフカメラを向けてとにかくシャッターを切った。今でも玄関にこの時の写真が飾ってある。二十二年前の写真ということになる。卒業の季節が来るといつもその彗星のことを思い出す。一九八六年、あまりにも有名なあのハレー彗星がやって来た。小さな赤道儀のついた望遠鏡にカメラをとり付けて撮影した。
一九九六年、日本人、百武さんが発見し世界的にも有名になったあの百武彗星が来ていた。この時は三台のカメラを望遠鏡に取り付け何百枚もの写真を撮った。飾られたウエスト、ハレー、百武の三つの彗星の写真の日付を見て宇宙熱(一人暗闇の中で宇宙を見ている自分を私はそう呼んでいる)にかかっていたのが偶然にも一〇年周期である事に気づいた。運命的なものを感じた。ところが次の年の一九九七年にはヘールボップ彗星がやってきて私は宇宙熱にかかったまま、そして今年一九九八年、何もかも地球から遠ざかってしまった今いつもの私なら宇宙熱が冷める頃なのに私は相変わらず望遠鏡とカメラを空に向けている。
どうしたのでしょう。実は昨年九月に星が好きでとにかく星に興味がある人達が集まって「たじま天文同好会」を結成したのです。それぞれに星を楽しんでいた人が一同に介して情報を交換したり天文についての勉強会などをして行こうという会です。結成当初、六人だった会員も現在十六名、町の文化祭にも会員自慢の天体写真の展示などで参加させていただきました。会報を発行したり、町の公園に自慢の望遠鏡を持ち寄り星空観望会を催しました。四〇人近くも集まり、空の端から端まで流れる大きな流れ星を二度もみんなで見たときの大きな歓声、感動は忘れません。その日の空は一人で見ていたいつもの空と違って見えました。 こうして同じ価値観のみんなといる限り私の宇宙熱はもう冷めないでしょう。この会の会則の中に「この会の活動により一人でも多くの新しい天文ファンが生まれること、無限の宇宙への興味、科学に関心ある人(子供たち)が育つことを夢とする」とあります。この天文同好会があることでこの小さな町から宇宙物理学者や彗星を発見するほどのアマチュア天文家も現れるかもしれません。大人も子供も宇宙への夢が膨らむ天文同好会でありたい。もしかして二〇〇六年、巨大な彗星がやって来てその彗星には、会員の名前がついているかもしれない。
私の天体ホームページ「オリオン」URL: http://www.akina.ne.jp/~orion/
1998.3.22
2001/05/04:「2000年を前に」〜コンピューターと私〜(一日分)
私はコンピューターをこよなく愛し、それに助けられて生きています。コンピューターを「友」としてつき合っています。(もちろん人間の友達もいますので誤解のないように)何もそれがないと生きていけない訳でもないが、今では私の生活の中に溶け込み、空気のような存在になりつつある。一九八〇年、初めて自分のコンピューターを手にし、年々進歩するコンピューターと共に生きてきた。一八年間もそれとつき合っていれば、今頃プログラマーくらいになっていてもいいはずだが、中身や仕組みを知らなくても自動車を運転したり、テレビが見られるように、一緒にいた時間が長い分、その性格や特徴を知っているだけなのだ。次々と新しく発売されるコンピューターを追いかけてきた。ところが二十一世紀を前に何かコンピューターの性能が成熟期に入ったような気がするのだ。ワープロ機能、計算、データベース、画像処理、通信など初期のコンピューターでもすでにやっていた事だが、処理速度やメモリーのめざましい進歩により性能が一〇〇倍以上も上がっているのだ。インターネットによって、自分のコンピューターが世界中のコンピューターとつながりあらゆる情報を自由に取り出すことも、自分から世界に向けて情報を発信する事もできるのだ。まさにコンピューターは情報を収穫し、自分風に加工して発信する道具だ。ほとんどの仕事はこなしてしまう。まさかトラクターのように畑を耕すことはできないが、他の機械もそうであるように人間に変わってその仕事を高速で処理し、人間に自由な時間を提供してくれる。私がコンピューターをやっている理由はここである。
そしてもう一つの理由は、人は誰でも一つや二つコンプレックスを持っていて、それを少しでも無くしたいという願望があるものだ。シャランQの「あいつみたいな顔に生まれりゃ・・」という願いをコンピューターがかなえてくれるはずはない。しかし私自身、恥をさらすようだが、社会人になってから、もう少し字が上手に書きたいとか、ある程度の記憶力が欲しいとか、そういうコンプレックスを無くしたいという願望は持っていた。もちろんまじめにペン習字や勉強でもすればそれらは消えるはずのコンプレックスなのだとは思うが、実際そう簡単にできるものではない。ところがそのコンピューターの進歩のおかげで、今の私の手紙は活字に変わった。電子の海(インターネット上)で出会った岡山の友達に一瞬にして私の電子メールが送られ、そしてすぐに返事が届く。本来、私の脳に刻まれるはずの私が欲して求めた知識や記憶はコンピューターを通して一枚の光ディスクに焼き込まれ必要なときいつでも取り出せる。こうして私の記憶力を助け、筆無精の私を変えてくれたのがこのコンピューターなのだ。少し進歩した自分がそこにはいる。
現在の社会のシステム全てがコンピューター無しでは考えられない時代でもあるが、個人の生活の中ではまだまだコンピューターなど無くても生きていけるのも事実だ。「コンピューター、そんなもんいらない。電気など無くても動くこの自分の素敵な脳があるではないか・・」それで良いのだと思う。ただもし私のように文字や記憶力にコンプレックスを持っていてそれを何とかしたいと思っている人がいるのなら、あるいはそのコンピューターで自分の欲するものを、手にすることができるような予感がするのなら・・
さあコンピューターを始めましょう。
1998.4.10
2001/05/03:「映画館へ行こう!」〜映像の向こうに〜(一日分)
「最近、映画見た?」と友達に聞くと「すぐにテレビでやるからお金出してわざわざ行かなくても・・・」とよく言われてしまう。つくづく彼に言いたい。映画はテレビと違うのだ。自分が見ている世の中がフルサイズならばテレビはミニチュアだろうし、映画はこの現実に近い。主人公の顔などはスクリーンいっぱいに映し出され、それは現実の人間の顔の何百倍もあり、その頬から流れる涙がバケツ一杯ぐらいあるのだ。映画はあの大きなスクリーンが重要なのだ。逆に画面がマッチ箱程度の大きさの液晶テレビで「風と共に去りぬ」を見ている自分を想像すればわかってもらえるだろうか。
私が映画館で映画を見るようになったのは二十才を過ぎてからだ。それまでは各民放テレビ局の夜九時からの映画を見ていた程度だった。毎年、何本かずつ見ていた。ある年の冬、毎週のように映画館に足を運べたときがあった。一日に四、五本、映画をはしごするのだ。帰り道にその日見た映画を思い出すと、はじめの映画の主人公が三本目の映画で大暴れしているようなことも、その日見た映画の題名すら思い出せないこともよくあった。もちろんその年に見た映画が何だったのか何十年もたった今、覚えているはずがない。ところがそれ以前、年に数本しか見ていない年の映画は良く覚えていて、その時の感動も鮮明に思い出せるのだ。それは次に見る映画までの時間があったこと、誰かに話したりすることで、その感動を持続し、あるいは自分の中で感動を育てる時間があったからだと思う。私が小さい頃、みかんの缶詰が貴重で、年に一、二度しか食べられなかった時代、風邪でもひいて学校を休んだ時など風邪薬より、みかんの缶詰のほうがが良く効いたのと同じように、たった一本の映画だったから効き目があったのだ。「効き目」と書いたが、映画の効き目はいったいなんだろうか。映画はもちろんみかんと違って甘くて美味しいだけじゃない。四角のスクリーンに映し出される風景、風になびく金色の麦の穂が地平線の向こうまで続く・・・人間の愛、憎しみ、笑い、悲しみ、喜び、勇気、希望、優しさ・・・沢山の心や色々な人生が描き出される。過去、現在、未来、時を越えて、まだ行ったことのない国、まだ見ぬ宇宙の果てまでも映し出してくれる。カッコイイ主人公が自分に変わって悪い奴らをやっつける。もちろん超美人とのラブシーンだってある。見ているうちにいつの間にかスクリーンの中に引き込まれ映画と同化していく。そして心をゆさぶるほどの感動が体中一杯になる。現実の人生は一つだけれど映画はそんな自分にいくつもの夢、いくつもの人生を体験させてくれるのだ。人の心は現実の自分自身の体験によって生まれ育つように、映画はその「体験」の一つとして心の栄養、スパイス、調味料になるのだ。さあ映画館へ行こう!
ところでそれと同じ映像のテレビはどうだろうか、テレビは、スイッチを切らない限り、一日にいくつものドラマやアニメ、時には暗いニュースが切れ目なく流れ出してくる。心のほとんどは自分の現実の体験から作られ、映像は補助的な栄養のはずなのに、テレビのその映像体験が現実を追い越していく。現実の目の前の出来事が映像なのか現実なのか、区別がつかなくなっていく。昨日の涙も今日の涙もただの水に変わり心が麻痺していく。あの風邪を治したみかんも食べ過ぎれば消化不良をおこすように・・あの一個のみかんのようないい映画、いいテレビを探して、選んで見ましょう。
1998.5.1
2001/05/02:「話す」チャンス(一日分)
先日、この村に住む若い人たちの集まりがあった。町の地域手づくり事業として各地区ごとに村おこしなど村のために自由に使える予算が町から出ることになり、今年一月の村の総会において、我々より先輩であり熟年の人たちから「その使い道は若いてーに、頼む」と声があがってその場で若い人たちの会が結成されたのである。村民、自らが考える、村民の手による、村のための事業プロジェクトチームのようなものである。その会の顔ぶれはというと職場が違うだけで、小さいときから一緒に育った気心知れた、同じ世代の同じ村の住人だ。同等の立場、同じラインに立っているから言うことに遠慮もなければ、飾ることも、見栄(みえ)張ることもない。そもそもこの文章も「さとし、民報サロンに書いてるみでーだけど、一度ぐらいはこの会のことかぐなんねぞ!」と半分脅迫されて書いているのだ(冗談です)。村の将来の話がでていたかと思うと、様々な個性の集まりだからいつのまにか脱線して子供だった頃の懐古談やUFOや超能力の話題に話が飛んだりするのだ。こっちの話のほうが盛り上がったりする。「オイオイ、村の将来はどこへ行っちゃったんだよ」と私は心の中でつぶやいている。この日は昭和三十年代頃の村や町のにぎやかな風景の話で花が咲いた。聞いていて懐かしく思い出されたし楽しい時間が過ぎた。「あのころ田島の祭り(会津田島祇園祭)にはサーカスが来ていて・・、今はないけどあそこの角の食堂でラーメンとそこの棚のゆで卵を食うのが、ハイカラだった」などなど、話しは切れることがない。そう言えば同じ村に長年住んでいながら、村の未来や色々なことをそれまで話さずにいたのが不思議なような気がした。やっぱりそれぞれに忙しい世の中なのだ。偶然にもこんな会が結成され、一番興味ある?UFOの話まですることになったのだから、村にも、そんな予算を決めた町にも感謝したい。そういえば今の世の中、こうしてみんなが集まって話すチャンスなどあるのだろうか。最近あなたは、三分以上誰かと話しましたか?妻、夫、我が子、兄弟、親、爺ちゃん婆ちゃん、あるいは友達同士で、きのう見たテレビのこと、人生のこと、我が家の将来について、話題はそれぞれ様々、こうして生きていれば、見たり聞いたりその日あったことを、誰かに話したくなるのは当たり前の事だ。自分に向かってきたあらゆることを、人それぞれ自分の中で消化吸収し、様々な形で外へ放出したくなるのは人間の本能なのだ。この声、この手、この体全体を使って表現する。それは会話、文章、詩、童話、映画、演劇、歌、花、絵、踊り、ダンス、様々な形で・・。それがまた誰かに伝わり、その人の中でまた別なものに変わる。それが喜びや感動だったら素敵です。私にもその喜びや感動をくれた人が沢山いた。二十年近くも前出会ったその人は、私に映画や音楽について沢山のことを話してくれた。それは夜明けまで続いた。その人といた時間が、様々な価値観、あるいは自分の中に眠っていた何かを目覚めさせてくれたような気がしてならないのだ。「話す」ことは様々な価値観を知ることだし、様々な人を見つめることになる。それは同時に自分という人間を見つめることになり、それはもう一人の新しい自分を発見することになるのだ。そんなチャンスが増えれば増えるほど、この小さな町にもキラキラと輝き、夢を持ち続ける人がさらに増えるのではないだろうか。
この「話す」チャンスを大事にしたい。
1998.5.22
2001/05/01:「自然の中で」〜心の退化よ 止まれ〜(一日分)
今年の春はいつもと違った春でした。刺激的であり自分への挑戦であり、もう一人の自分の発見でもありました。それはこの民報サロンです。「見たよ・・楽しみにしてるから」と電話がきたり、久しく会っていなかった人から突然ハガキが届いたり、私を気にしてくれた人の優しさが嬉しい春でした。心からその優しさにありがとう。農業を営む私は自然の中に一人ポツンといることが多い。田んぼの真ん中、森の中、池や川。四十年以上もこの土地に生きて、同じ見慣れた風景の中にいて飽きたことなど一度もない。都会の人には申し訳ないがここが本当の人間の居場所であるといつも感じていた。森の木々をぬける風や光の中にいるだけで感動を覚える。からだ中が何かで満たされていく。自然の持つ力かエネルギーか、森や風の神々からのメッセージか・・。その偉大なる自然の中にいる自分という一人の人間があまりにも弱く小さな存在であることを認めざるおえない。自分一人、身がまえてもどうすることもできないのだ。あきらめにも似た、敗北感がこみあげる。そしてしばらくすると、この世のすべてを心から認められるやさしい自分に変わっているのだ。きのうまで誰かに負けまいと自分と同じ人間を相手に戦い生きてきた。しかし今日、こうして自然の中にいるだけで、やさしい自分になっているのだ。
今の世の中、人間がこうして自然の中に身を置き、その自然の力を体で感じるチャンスがあるのだろうか。最近、長い時間コンピューターといるせいか、時々自分の脳が電気回路に置き換わって見えることがある。ユーモア回路、ジェラシー回路など様々、人によってその回路の大きさや特徴が違う。世の中にいろんな人がいること自体それらの回路の様々な組み合わせやバランスで、脳が作られているように見えるのだ。その回路の中に「やさしさ」や「喜び」をまわりにふりまくような役目をしている「心」という回路がある。最近その「心の回路」に大きな異変が起きているのだ。まもなくコンピューターや映像やゲームが人間をリードする時代がやって来る。人とのかかわりがなくても一人で生きられる世界が完成しつつある。村の長老や父や母から、兄や姉から、友達や旅先で出会った人から・・多くの人から学ぶことが消えていく。いろいろな人とのかかわりが薄れ、教えたり教えられたりするかかわりが世の中から消えようとしている。この日本から消えようとしているのだ。人との「かかわり」が減ることは人間にとって「心」の退化を意味する。生物の進化は合理的だ。いらなくなればどんどん退化し消える。昔、人間にもあったあのシッポのように・・いつのまにか人間は自然を離れその偉大なる力を忘れかけているだけなのだ。今ならその「心」の退化を止められる。もちろん人間もその進化に気づき始めてはいる。まさか足の長さや身長が伸びていい男やいい女が増えた事だけ調査しているわけでもあるまい。
人間のいつのまにか消えたあのシッポのように消えて良かったと思えるものならいいけれど、この「心」だけは、絶対に消えないで欲しい。そしてその消さない方法は簡単だ。大自然の中に我が身を置き、自然を感じ新しい自分を発見すればいいのだ。コンピューターやゲームや電話やポケベルの誘惑に負けず、四角の箱の中で勉強ばかりしていないで、いろいろな人、すてきな人と直接かかわれる時間を作るだけでいいのだ。そして再び「心」は新しい進化を始める。 心の退化よ 止まれ!
1998.6.11