ひとり言(2002/03)
2002/03/08:徹底討論ふくしま21 生放送!学校が変わるへメールしてみた。(一日分)
いつもNHKの番組、特にクローズアップ現代、NHKスペシャル、ETV2000、金曜フォーラム、視点論点など、のめり込んで見ている一人です。素晴らしい番組に感謝しております。そんな私ですが最近日本の教育、子供の未来、少しも変わらない教育に対する価値観など、気になってしかたがないのです。私がいつも強く感じていること、言いたくてしょうがないことをメールとしてここに発信します。
一人の平凡な男の「けち」「ぐち」だけのつもりではありません。聞いてください。
2002年3月1日のテレビ番組生放送 第一部 夕方4:59から 第2部夜7:30から
次 第
「教育に対する革命的アイディアが生まれない理由」
「知導説(ちどうせつ)を信じている日本人」
「今の教育に言いたいこと」
「もうひとつの知識の置き場所をみつけたのに」
「未来人達は知っている」
「人の輝きが星の光を見るように心地よかったら」
「もし素敵な男、素敵な女、素敵な大人になりたいのなら」
「教育について、ふと思ったこと」
こんなに有識者達に対してのゆがんだ私の考えなど、もちろんとりあげることはなかったけどね。でも読み上げられるのはみなFAXだけだったみたいです。生放送で私のような抽象的な具体性の無い意見はナンセンスのようでした。でも番組の中での討論は、生放送ということもあって、結局、先生や学校という現場の変化、地域の変化への不安など、子供という人間そのもの中身など、大切な部分はこういう討論のばでは不似合いだったようだし、当然といえば当然、つかみ所もないし抽象的、具体的部分へ確信へ迫るのは無理のようでした。こんなもんかな?って・・カンジ・・でした。
2002/03/07:未来人達は知っている(一日分)
未来のある日、かつて知識の量を競い合った人間達も、コンピューターやインターネットで電子社会を自由に踊る人間たちも、持っているお金の量やどんな家に住んで、持っている物の量を競い合っていた人間達も、宗教の違いで互いに憎しみ競い合っていた人間達も、それら様々な固定された価値観で完成した過去の人間達があまりにも小さな存在で、おかしくおろかに見えるときがくるのかもしれない。人間の本質とは何なのか未来人達は知っている。 そう私は信じている。
2002/03/06:もし素敵な男、素敵な女、素敵な大人になりたいのなら(一日分)
もし君が、素敵な男、素敵な女、素敵な大人になりたいと思うなら、簡単です。歌を歌って、人とおしゃべりを楽しみ、心を磨き、スポーツ、ダンスや武道でもやっていれば素敵な男、素敵な女、素敵な大人になれるはず。できれば虫歯が一本も無く。背の高さが一八〇程度????(これは私個人的願望で、大きくなれなかった自分への反省、牛乳でも飲んでいれば誰だって大きくなれる)、ユーモアがあって宇宙や地球上の出来事に興味があって、人間の悲しむ顔に心痛め、いつかその人たちの苦痛を取り除けるような人間になっていようとする。いいえ、いつのまにかそんな人間になっているはず・・・。
「素敵な男、素敵な女、素敵な大人になりたい」などと思うことも無く、誰に指示されることも、強制されることもなく、自然に本能的にそんな素敵な人間になっている。そんな世の中でありますように・・・・
2002/03/05:人の輝きが星の光を見るように心地よかったら、世の中がどんなに平和でありましょう(一日分)
(ある少年へのメール)
人の輝きが星の光を見るように心地よかったら、世の中がどんなに平和でありましょう。私にとって素敵な人とは、全ての人間が持っている様々な輝きを見ることのできる人間です。その輝きとは、決してノーベル賞をもらった人、金メダルを手にした人、東大をでて知識のいっぱいある人、政治家になって大金持ちになった人ではありません。人間の本当に大切なものを持ち続け、生きている人はみな輝いているのです。そして自分の輝きに気づいた人は、他の人の輝きを見ることもできます。その人の優しさや、感性や、さらには真実の輝きをも見ることができるのです。人間には、みなそれぞれに星と同じように輝きがあるのです。星空のように輝きはまばらです。それだから星空は美しい。輝きは違っていても、それらの星々の本当の大きさは、決して今の輝きに比例しているものではない。人の輝きが星の光を見るように心地よかったら、世の中がどんなに平和でありましょう。今の君がどんなことに興味を持ち、どんな価値観が君の中で育とうとしているのかが、私には興味があります。 私には、そんな今の君が輝いて見えました。
2002/03/04:もうひとつの知識の置き場所をみつけたのに・・・・ (今の教育に言いたいこと)(一日分)
人間はこんなに便利なコンピューターという道具を手に入れたのに人間の脳への知識詰め込み作業をやめようとしない。知識や情報の置き場所を人間の脳ではなくコンピューターや電子ネットワーク(インターネット世界)の中に見つけたはずなのに、文部科学省や学校は、相変わらず知識を人間の脳ミソの中に置こうとしています。今は江戸時代でも、昭和でもありません。未来のはずです。未来人たちは今の人間がコンピューターが脳作業(人間の脳への知識詰め込み行動)から解放してくれる道具であることに気づいていない現代人たちの姿をコッケイに、そして歯がゆい思いで見ているのではないだろうか。人間の知識詰め込みという脳作業の時代にさよならできる今なのに、人々はそのことに気づいていない。それまで人間が自分の脳を使ってやってきた知識を貯めておき、いつでも取り出したりする行為を、人間に代わってコンピューターという道具がやってくれる。何度も言うが、そのコンピューターが人間の知識詰め込みの脳作業から解放してくれるのだ。自動車の出現によって隣町の恋人に会うのに一日かかったのが30分も車で走れば会えるのだ。 10人で一週間かかった農作業がトラクターが2時間で終してしまう。 人間が作り上げた道具が、恋人への切ない思いを解消し、多くの肉体労働から人間を解放したのだ。もしコンピューターが人間の知識の置き場所としての脳の役割を解放することができるとしたら、その時こそ我々は自分の脳をもっと素敵な感性とか、芸術性、創造性や優しさ、人間の本質を育てることに使うことができるのではないだろうか。自分の脳なのだから、自分の為に使おうよ!自分の脳なのに、他人の押しつけた情報の置き場所に使うのはやめましょう。 もし今の自分には要らないけれど、いつか役立つ時が来るような予感がする情報ならとりあえず、コンピューターにしまっておき、もしかして20年30年たったころ、ある歳になったとき、その情報が自分のために生き返るかもしれません。
人々が「知識の量」ではなく、その人の本質によって様々に輝ける時代がやってくるのだ。
2002/03/03:「知導説(ちどうせつ)」を信じている日本人(一日分)
「これからの新しい日本の教育」、「情報化の波」、「IT社会」をトレンディーであると勘違いしてる日本人が多い。かつて天動説を否定し、地動説を主張したガリレオがいたように、人間の本質とは、知主導説(知識の量の多さのが人間の価値に比例する説)に異を主張するときが来たのだ。今の日本人のほとんどは、知導説(ちどうせつ)を日本人が信じている。これってとっても未来チックじゃないよね。 とても残念です。
2002/03/02:教育に対する革命的アイディアが生まれない理由(一日分)
もしたった今、地球上の誰かが教育に対する革命的アイディアを発見したとしても、人々はその人のアイディアをすぐに取り上げることはないだろう。その人間に付いたラベルを見て評価するだろう。そしてノーラベルであったら、そのアイディアは、ある地球人の寝言として消えていくのだ。そのラベルとは「・・・大学教授、・・・研究家、・・・評論家、・・・大臣、・・・心理学者など」である。別な表現をすれば「有識者達」である。それは学歴社会の勝者たちであり、日本の社会が人生の成功者としてその人間に付けたブランド品としての証明のラベルである。討論会、研究会、フォーラムなどには当然のごとく必需品、いや必需人である。その存在や立場はとても重要だが、それらの分野のプロということは、その分野の価値観や視点でしかそのテーマを見れないことになる。世間の人々は「それだから素晴らしいアイディアが生まれるんだ」と言うかもしれないが、20年も30年もの間、何万人ものそれらラベルのついた人々が、何万回もの研究会、フォーラムなどで教育が論じられ素晴らしいアイディアが生まれてこなかったという事実、そして大きな変化が無かったことが証明しています。
特に今回の番組のように教育を論じる場合、学歴社会(日本の教育シズテム)の勝者たちのラベルの持った人々が、そこに集まり、今の教育問題、今の教育全体、学校というもの、先生というものの存在理由など、その全体を見渡すことができるのだろうか。学歴社会の敗者、あるいはどちらでもない人々からの視点でものを述べることができるのだろうか、疑問である。
(ただ、そのためにこうしてNHKは、教育に対する一般の人々の考え、つまり有識者及び、有識者以外の人々、ノーラベル、ノーブランドの人間たちの意見をEメールによって聞こうとしている訳で、深く感謝しています)
2002/03/01:教育について、ふと思ったこと(一日分)
●いじめや不登校など、様々な学校での問題が目立つようになると。それまでの学校だけの授業では、子供達に伝えられない何かがあるらしいことに気づく。すると国は「ゆとりの教育」を叫び、勉強以外のことで、何かを見つけられるのではないかと、学校を週5日制にした。すると今度は、親達の間から学力低下が心配されるという声が上がる。あわてて、文部科学省は家での宿題などで、自宅での学習を進める方針を発信する。 私立校はそのことで子供達の学力の低下につながるとのことで以前のままでいく方針を決める。あわてて国は、国が決めたことだから私立の学校もそうしてくれと頼む。 学力差でも生じてしまうのが心配なのだろうか。まるでお粗末なキャッチボールにしか見えない。
●土曜日も学校に行きたくてしかたがない子供もいるらしい。決して勉強がしたいわけじゃなく、友達と会えるからだという。その少年はこれからその土曜日をどう過ごせば良いのだろう。
国も学校も親達も、社会も、子供達の未来、人間の本当に大切なもを見ようとはしていない。 学校にいる時間が長ければ長いほど優秀な人間が育つのなら、休みなど作らないで一生勉強していれば良い。世の中の親達の中には、迷わず子供にそんな選択をさせようと人間もいるのだ。将来は総理大臣になろうとたくらんでいる人種なのだろう。
●人間の学力って学ぼうとする力のことを言っているんでしょう。学力って、覚えた知識の量の多さをさしているんじゃないでしょう。 探求心、知りたいと思う欲求、アフガニスタンやアフリカの学校の無い子供達のインタビューをニュースで聞くことがあった。なぜ勉強しているんですか?「私が学んだことを、あの子供達に今度は私が教えられれば良いと持っています」後ろで遊ぶ貧しい子供達を指差して彼女は答えた。 住んでる社会が違うといえばそれだけかも知れないが・・・・彼女の学びに対する考えと日本人のそれとの何と比較にならないことか・・純粋に学ぶということはシンプルであって、知りたい自分の体の中に(決して脳ではありません、つまり知識(脳)も知恵(モラル)も、体験(小脳)も含めて体全体)取込もうとする意欲のようなものである。ある人が「学校の授業とは先生の意図がそこには必要で、子供達に身につくためのプログラム、マニュアルが必要だ。教育の基本は読み書きだ」だそうだ。文字など無かった時代には人間はずーっと朝からおしゃべりしたに違いない。何千年も前ギリシャでは、500年くらい人間とは、宇宙とはと朝から晩までおしゃべりしていたに違いない。だから哲学なんかが進化してしまうのだ。なぜ文字ありき、「読み書き」なのか? 「読み書き」できぬ私の持論は「話す聞く」である。