私の 作文 |
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私の原点 | 漫画家・姉 湯田伸子 |
湯田伸子 について |
【喜びの出来事】
この春(2007年4月)、田島、南郷、伊南、舘岩の4町村が合併し南会津町になって、初めての町議会議員選挙に立候補し、当選することができました。感動でした。多くの人の優しさに感謝の連続、感動の連続でした。そんな選挙期間でした。もちろん不安もありました・・・・でも・・・・結果、当選、多くの人に助けられての当選でした。急な立候補だったので選挙カーは許可されません、ハンドマイクのみの許可で、マイク片手に町中を全て歩きでの選挙運動でした。(歩きだったので、伊南、舘岩には選挙運動に行くことができませんでした。伊南、舘岩の皆さんには申し訳ないと思っています)歩いている私をみて「こんな人はじめてだよぉ・・・」と声援を送ってくれた人もいました。選挙先で出会った人たち一人ひとりの顔を、そして手のぬくもりを忘れません。何とか選挙最終日の夜8時まで歩き続けられたけど、そして疲れたけど、心地よい疲れでした。満足の疲れでした。歩いている時は自分ひとりずーっと声を出していました。声が出続けたのも不思議でした。すべてやるだけやったという充実感、選挙運動を手伝ってくれた人たちへの感謝、応援してくれたみんなありがとう歩きの選挙は私に多くのことをプレゼントしてくれました。多くの収穫がありました。「人の優しさ」、「情け」、「私の責任の重さ」、「エール」、「期待」、「感謝」、「願い」、「感動」
【私の政治姿勢は?】
あなたのアイディアが町の未来を変えます!
あなたのその思い、願い、考え、アイディアを議会に届ける役割を私に託して下さい。そしてその思いの実現のため、そして少しでも住み良い町を作るために、あなたの思いをエネルギーとして私は働きます。子どもたち、若者たち、私たちの未来のために・・・
【私の歴史?】
私は、昭和32年1月5日福島県南会津郡田島町大字針生(はりゅう)という小さな村で、父梅久、母キチの次男としてこの世に生を享けた。
兄健一、姉桂子、伸子、私、妹の紀子、5人兄弟である。おもちゃや機械いじりが好きで、買ってもらうとすぐに壊していたとか(自分では遊んだ後だと思うんだけど) 小さかったころのある日、家(かやぶきの家)の改修工事に来ていた大工さん(ゲンジロウダイク)から買ってもらったおもちゃのヘリコプターが夕方にはトーベハタの池の中に、沈んでいたとか、そんな子供時代のエピソードがありました。(被告人さとし、「まったく記憶にございません」ただ昔から機械を集めてきたり壊したり作ったりしていたのだけ覚えていますが)おかげでこれら多くの事件で機械の仕組みや構造、その中の部品の役割なんかを理解できる能力が自然に身についたような気がします。今の私の基本の一部がこの時代に作られたのだと思っています。
学校の成績はというと図画工作、理科だけは得意だったと思います。他は何かチンプンカンプンだったような子どもでした。ただ兄や姉たちの勉強する後姿の風景を毎日見ていたせいか、少しは机に向かう、書くまねとか、カッコーだけはやってたような気がします。
【ものづくりが趣味】
最近は3Dプリンタ―によって、工作するものを自由に、自分の発想、アイディアの具現化、物体化?ができちゃう、とにかく嬉しくて、こんな素敵な時代に自分が生きていることが嬉しくて、つまり「ものづくり・自作派・発明家??」にとって、とてつもない「助っ人」3Dプリンタ―への崇拝と感謝なのです。故障した機械の部品を作り、以前通りに動かせたり(その故障した機械がだいぶ古くメーカーではその部品は現在は作っていません。廃盤?ですとの返事・・ならば自分で作るしかない)
ものづくりは楽しい、考えることは楽しい、故障したものを修理して復活させるのは楽しい、誰かが苦労しているものを改善し喜んでもらうのは嬉しい。
●2004年の第49回福島県発明展に出展した「消火用ホース巻き取り装置」で最高賞「県知事賞」
●2014年の第59回福島県発明展に出展した「太陽追尾発電温水装置シーソーラー」で最高賞「県知事賞」
●2023年の第68回福島県発明展に出展した「節水装置ウォーターループ」で最高賞「県知事賞」
その他の発明展でも 何度も入賞させて頂いています。これは「モノづくり」する私への刺激であり何かを完成させる喜びなのです。
【経歴】2007年に記入したものに2023年に追記しました
田島町立針生小学校を昭和44年3月卒、檜沢中学校を昭和47年3月卒、
福島県立田島高等学校を昭和50年3月卒、福島県会津農業センターを昭和51年3月に卒(第2期生)、その年の4月家の農業に従事、1982年にだいくらスキー場ができ、次の年6月、台鞍荘という民宿を建て、12月には営業を開始、農業と民宿を合わせた経営で現在にいたります。
農業は31年、民宿は25年が経ちました。(2007年)
今年でちょうど50歳(この文章の16年後の2023年1月に66際を迎えました)、昔だったら「人生わずか40年」でとっくにこの世に存在しないはずの私がこうして生きている。母の人生の厚みまで後13年、父の人生の厚み(寿命)まで後32年、どれぐらいの厚みまで生きられるか分からないけれど精一杯、生きるたいものである。ならば厚みはともかく、少し中身のある人生で生きたいものである。 贅沢かな? 父、母の分まで、いいえ私のルーツの全ての人に感謝し、そのルーツの小さな代表として生きてみたい。
家族は妻、息子(当時田島高校2年だった息子は現在、自分で南郷トマト栽培の農業をしています・ちなみに私は米づくり農家です)そして息子の嫁さんがきてくれて、嬉しくも4人家族です。